
多くのファンに衝撃を与えた『進撃の巨人』の最終回。「進撃の巨人 最終回ひどい」という声が上がる一方で、物語の深さを称賛する意見も見られます。
長きにわたる物語が迎えた結末について、エレンの行動は結局どいういうことだったのか、リヴァイ死亡説の真相、そして賛否を呼んだミカサ結婚の結末に後悔はなかったのか、様々な疑問が渦巻いているのではないでしょうか。また、物語の鍵を握る木と少年のシーンが意味が分からないと感じる方も少なくありません。
しかし、物語を深く読み解くと、実は最終回すごいという評価にも頷ける、作者の巧みな構成が見えてきます。この記事では、なぜ最終回が「ひどい」と言われるのか、その理由を多角的に分析し、物語に隠された謎やテーマを解りやすく最終回を解説します。
ポイント
最終回が「ひどい」と言われる具体的な理由
エレンの真意や物語の謎に関する詳しい考察
アニメ版と原作の違いによる解釈の幅
リヴァイやミカサなど主要キャラの結末の真相
目次
なぜ進撃の巨人 最終回ひどいと言われるのか?
まずは解りやすく最終回を解説します
エレンの行動は結局どいういうこと?
始祖ユミル解放など意味が分からない点
多くの読者が抱いた結末への後悔
賛否を呼んだミカサ結婚という結末
アニメ版と原作ラストシーンの違い
まずは解りやすく最終回を解説します
『進撃の巨人』の最終回は、主人公エレン・イェーガーが「地鳴らし」を発動し、壁外人類の約8割を犠牲にした後、かつての仲間たちの手によって討たれるという衝撃的な結末を迎えます。この行動の背景には、非常に複雑な動機が隠されていました。
エレンの目的は、大きく分けて二つあったと考えられます。一つは、パラディ島の仲間たち、特に同期の仲間が生涯を全うできる平和な世界を作ることです。そのためには、世界中から向けられる憎悪を自分一人に集め、自らが「人類共通の敵」となる必要がありました。そして、仲間たちの手で討たれることで、彼らを「世界を救った英雄」に仕立て上げ、エルディア人への偏見を払拭しようと試みたのです。
もう一つの目的は、始祖ユミルを永い呪いから解放することでした。二千年間、フリッツ王への歪んだ愛と隷属に囚われていたユミル。彼女を解放するには、同じように深く愛する対象(エレン)を自らの意志で手にかけるミカサの選択が必要でした。これらの目的を達成するために、エレンは多くの犠牲を払う過酷な道を選んだ、というのが最終回のあらすじになります。
エレンの行動は結局どいういうこと?
最終回におけるエレンの行動原理は、多くの読者を混乱させました。「結局どいういうことだったのか」という疑問の核心は、彼の自己犠牲的な動機にあります。
エレンは、自分を愛してくれた仲間たちが、自分がいなくなった世界で幸せに生きていくことを何よりも望んでいました。しかし、彼が「進撃の巨人」の能力で見た未来では、仲間たちが争いや戦争で命を落とす可能性がありました。この未来を回避する唯一の方法が、彼自身が「悪」の象徴となり、世界の憎しみを一手に引き受けた上で討たれることだったのです。
また、アルミンの問いかけに対し、エレンは「ミカサに他の男のことなんて考えてほしくない」「この先10年は引きずっていてほしい」といった、非常に人間的で本音ともとれる発言をします。この部分は、それまでの英雄的なイメージとのギャップから、彼の行動の崇高さを損なうと感じる読者もいました。
しかし、こういった未練や弱さを見せる描写は、彼が神のような超越者ではなく、一人の苦悩する青年であったことを示しています。つまり、世界と仲間を救うという大きな目的のために行動しつつも、個人的な感情に引き裂かれていた、というのがエレンの行動の真相だと考えられます。
始祖ユミル解放など意味が分からない点
物語のクライマックスで描かれる「始祖ユミルの解放」は、多くの読者が「意味が分からない」と感じたポイントの一つです。なぜミカサの行動が、二千年も囚われていたユミルの解放に繋がったのでしょうか。
これを理解する鍵は、ユミルが抱えていた「愛と隷属」の呪縛にあります。始祖ユミルは、自分を奴隷として扱い続けたフリッツ王に対して、愛情ともいえる強い執着を抱き、死後も王の血筋に絶対的に服従し続けていました。彼女は、愛する者から解放されることを心のどこかで望みながらも、自らそれを断ち切ることができずにいたのです。
ここで、ミカサの存在が重要になります。ミカサもまた、エレンに対して絶対的ともいえる深い愛情を抱いていました。ユミルは、自分と似た境遇にあるミカサがどのような選択をするのかを、ずっと見守っていたと考えられます。そしてミカサは、エレンを愛するがゆえに、彼の暴走を止めるために彼を討つという、非常に辛い決断を下します。
この「愛に盲従するのではなく、愛する相手を想い、自らの意志で過酷な選択をする」というミカサの行動が、ユミルにとっての答えとなりました。愛ゆえに隷属するのではなく、愛ゆえに解放するという道を示したことで、ユミルの魂は二千年の長きにわたる呪縛からようやく解放されたのです。このように考えると、一見複雑に見える関係性にも、テーマとしての一貫性が見えてきます。
多くの読者が抱いた結末への後悔
物語の結末に対して、多くのファンが一種の「後悔」にも似た感情を抱きました。この感情の源泉は、主に二つの側面に分けられます。
一つ目は、主人公であるエレンが救われることのない、あまりにも悲劇的な結末を迎えた点です。読者の多くは、数々の困難を乗り越えてきたエレンに、最終的には幸せになってほしいと願っていました。しかし、彼が選んだのは自らの命と引き換えに仲間たちの未来を確保するという道であり、個人的な幸福は一切ありませんでした。このやるせない結末に、「もっと違う道はなかったのか」という後悔の念を抱くのは自然な反応と言えます。
二つ目は、物語が提示した「救い」が完全ではなかった点です。エレンの犠牲によって巨人の力は消え、一時的な平和は訪れます。しかし、エピローグでは、遠い未来で再び戦争が起こり、文明が崩壊する様子が描かれます。これは、「エレンの犠牲は無駄だったのではないか」「結局、人類は争いをやめられないのか」という虚無感に繋がり、物語の結末に対する後悔をより深いものにしました。ハッピーエンドを期待していた読者にとって、この厳しい現実は受け入れがたいものだったのかもしれません。
賛否を呼んだミカサ結婚という結末
最終回のエピローグで、ミカサがエレンの墓前に家族らしき人物と共に訪れるシーンが描かれました。アニメ版ではより明確に、彼女がジャンと思われる男性と結婚し、子供をもうけ、生涯を終えるまでエレンを想い続けたことが示唆されています。この「ミカサ結婚」という結末は、ファンの間で大きな賛否両論を巻き起こしました。
否定的な意見の多くは、「エレンへの裏切りではないか」という感情に基づいています。ミカサのエレンへの愛は物語の核の一つであり、彼女には生涯エレンだけを想い続けてほしかった、と考えるファンが少なくありませんでした。エレンがミカサの幸せを願って自己犠牲の道を選んだことを踏まえても、他の男性と結ばれる展開に抵抗を感じる声が多く上がったのです。
一方で、肯定的な意見もあります。これは、ミカサがエレンの死という大きな悲しみを乗り越え、前を向いて自分の人生を歩んだ証しと捉える見方です。エレンの願いは、ミカサが幸せになることでした。彼女が新たな家族を築き、穏やかな人生を送ったことは、エレンの願いが叶った形とも解釈できます。愛する人を失った後も、その想いを胸に未来へ進んでいく彼女の姿は、一つの救いや希望として描かれている、と考えることもできるでしょう。
アニメ版と原作ラストシーンの違い
『進撃の巨人』の最終回は、原作漫画とアニメ版でいくつかの重要な違いがあり、これが視聴者の解釈や感想に大きな影響を与えました。ストーリーの根幹は同じですが、演出や描写の追加・変更によって、受け取る印象が大きく異なります。
最も大きな違いは、エピローグにおけるミカサの未来の描写です。原作では、彼女がエレンの墓を訪れる姿が描かれるものの、その隣にいる人物や彼女の人生の詳細は読者の想像に委ねられていました。一方、アニメ版では、彼女がジャンと思われる男性と結婚し、子供や孫に囲まれて生涯を終えるまで、エレンのマフラーを巻き続ける姿が具体的に描かれています。
この変更は、原作の余韻を好むファンからは「蛇足だ」という批判があった一方で、「ミカサが幸せになれて良かった」と肯定的に受け止める声もありました。以下の表に、主な違いをまとめます。
進撃の巨人 最終回ひどい評価が変わる深掘り考察
リヴァイ死亡説の真相と戦いのその後
ループ説を暗示する木と少年のシーン
実は最終回すごいという肯定的な意見
リヴァイ死亡説の真相と戦いのその後
最終決戦で多大なダメージを負い、最終回で車椅子に乗る姿が描かれたリヴァイ兵長。その痛々しい姿から一部で「リヴァイ死亡説」が囁かれましたが、彼は死亡していません。
リヴァイのその後
最終話のエピローグでは、リヴァイがガビやファルコと共に車椅子で生活している様子が描かれています。彼は長年の戦いで右目の視力と右手の指2本を失い、足にも重傷を負いました。もはや以前のように立体機動装置を駆使して戦うことはできません。しかし、彼は確かに戦後を生き抜いています。
人類最強の兵士が戦う力を失い、静かに余生を送るという結末は、戦争がもたらす代償の大きさと、英雄の現実を象徴しているとも考えられます。彼は多くの仲間を失い、自らも満身創痍となりながら、仲間たちが命を捧げて勝ち取った平和な世界を見届ける役目を担っているのです。彼の存在は、戦争の悲劇と、それでも生き続けることの意味を静かに物語っています。
仲間への想い
エピローグの最後、リヴァイは亡き調査兵団の仲間たちの幻影を見ます。仲間たちが彼に心臓を捧げる敬礼をする中、リヴァイは敬礼を返しません。これは、彼がようやく仲間たちの死という重荷から解放され、一人の人間として彼らを見送ることができた、という解釈ができます。彼の戦いは、この瞬間に本当の意味で終わったのかもしれません。
ループ説を暗示する木と少年のシーン
物語の本当に最後のシーンで描かれる「少年と犬が巨大な木に向かう」場面は、物語がループする可能性を示唆しており、多くの考察を呼んでいます。
この巨大な木は、かつて始祖ユミルが「有機生物の起源」とされる存在と接触し、巨人の力を得た木と酷似しています。そして、木の根元にはエレンが埋葬されています。エレンの墓の前に立つ少年が、木のうろ(空洞)を見つけるところで物語は幕を閉じます。この描写は、かつてのユミルと同じように、この少年が再び巨人の力に類するものを手に入れる可能性を暗示しているのです。
このラストシーンから、「歴史は繰り返される」という本作の根底にあるテーマが読み取れます。エレンの犠牲によって一度は世界から消え去った巨人の力も、人類が争いをやめない限り、形を変えて再び現れるかもしれない。この解釈は、物語に完全なハッピーエンドを与えず、読者に未来への問いを投げかける、非常に示唆に富んだ終わり方と言えます。
一方で、これは絶望だけを示すものではない、という見方もできます。少年は好奇心を持って木に向かっており、そこには未知への探求という希望も感じられます。次の世代が、過去の過ちを繰り返すのか、それとも新たな道を切り開くのか。その選択は、未来を生きる者たちに委ねられているのです。
実は最終回すごいという肯定的な意見
「ひどい」という厳しい評価がある一方で、『進撃の巨人』の最終回を「すごい」「これ以上ない結末だ」と絶賛する声も数多く存在します。これらの肯定的な意見は、物語のテーマ性や構成の巧みさを高く評価しています。
最も評価されている点の一つは、安易なハッピーエンドを選ばなかったことです。本作は一貫して、自由を求めるための戦いと、それに伴う犠牲や世界の残酷さを描いてきました。もし最終回で全ての対立が解消され、全員が幸せになるという結末を迎えていたら、それまでの物語の重みが失われてしまったかもしれません。エレンの犠牲の上に成り立った不完全な平和と、それでも続いていく人々の営みを描いたことは、物語のテーマに誠実であったと評価されています。
また、複雑に張り巡らされた伏線が見事に回収されている点も、「すごい」と言われる理由です。始祖ユミルの物語とミカサの選択が繋がる構成や、エレンが見ていた未来の記憶の正体など、物語の根幹に関わる謎が最終回で明らかになります。これらの要素が一つに収束していく様は、壮大な物語を破綻なく描き切った作者の手腕を感じさせます。
結局のところ、この物語は単なる善悪二元論では語れません。登場人物それぞれに正義があり、そのぶつかり合いが悲劇を生むという現実世界の縮図のような構造になっています。このような複雑で深遠なテーマを描き切った点こそが、『進撃の巨人』の最終回が称賛される最大の理由なのでしょう。
総括:進撃の巨人 最終回ひどい評価の真相
この記事では、『進撃の巨人』の最終回がなぜ「ひどい」と言われるのか、その理由と様々な解釈について解説してきました。最後に、その評価の真相について重要なポイントをまとめます。
最終回が「ひどい」と言われる最大の理由は期待とのギャップにある
主人公エレンの自己犠牲的な結末が悲劇的すぎると感じる声が多い
人類の8割を犠牲にする「地鳴らし」という手段に納得できない意見がある
エレンの行動原理や本音が分かりにくく、キャラクター像がぶれたと感じる読者がいた
ミカサがジャンらしき男性と結婚する未来に、エレンへの裏切りだと感じるファンがいた
リヴァイが戦う力を失う結末は、戦争の残酷さを象徴している
リヴァイ死亡説は誤りで、彼は戦後を生き抜いている
始祖ユミルの解放のロジックが抽象的で、意味が分からないという感想があった
エピローグで再び戦争が描かれ、エレンの犠牲が無駄になったと感じる虚無感が生まれた
一方で、安易なハッピーエンドではないリアルな結末を評価する声も多い
物語全体のテーマに誠実で、伏線を巧みに回収した点を「すごい」と称賛する意見もある
ループ説を暗示する「木と少年」のシーンは、物語に深い余韻を残した
アニメ版では原作よりもキャラクターの心情や未来が具体的に描かれている
アニメ版の変更は、解釈を助ける一方で原作の余韻を損なったという賛否がある
「進撃の巨人 最終回ひどい」という評価は、物語の複雑さと多面的なテーマの裏返しとも言える
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